今国会で審議入りした「共謀罪」法案。ネットでは、これに反対の立場を述べるブログやサイトが少なくなく、さらに日本弁護士連合会(日弁連)も反対を表明しているため、私があえて反対の立場を表明したり、批判記事を書いたりする必要もないかと思えたが、それにしても、マスコミの沈黙ぶりはどうだろうか。
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ロイター通信は14日、物理学者アルベルト(アルバート)・アインシュタイン(Albert Einstein)がいま、ドイツで英雄扱いされていることを詳しく報道した。
・Germany reclaims Einstein as their hero(「ドイツはアインシュタインを英雄として取り戻す」ロイター、14日、英語)
また同日には、ドイツの首都ベルリンにあるスイス大使館の壁に、「本物の民主主義は空虚な妄想ではない」とのアインシュタインの引用が書かれた看板が掲げられた写真を配信した。
・Einstein quote placed on wall in Berlin(「アインシュタインの引用がベルリンに設置される」ロイター、14日、英語)
今年(2005)年は、アインシュタインが特殊相対性理論、光電効果の理論、ブラウン運動の理論を提出した1905年(「奇跡の年」といわれる)から100年で、没後50年でもある。
アインシュタインは1879年、ドイツのウルム市に生まれたが、兵役を回避するためにスイスに移り、チューリッヒ連邦工科大学を卒業後、スイス特許局に勤務するかたわら、論文を書いた。
アインシュタインは1914年から19年間ベルリンに住んでいたが、ユダヤ人だったので、ナチスに追われてドイツの公民権をあきらめ米国に移り、1940年に米国籍を得た。
国民が重大な刑事事件の裁判に参加することを義務付ける裁判員法案(正式には「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律案」)が21日、参議院本会議で賛成多数で可決、成立した。また同時に、公判前に事件の争点を整理する準備手続きの創設、証拠開示の拡充・ルールの明確化、連日開廷の確保、被疑者に対する公的弁護制度の導入などを定めた刑事訴訟法改正法案も可決、成立した。(毎日新聞-Yahoo!)
裁判員制度は今後、法律で5年以内と定められた準備期間を経てスタートする。
裁判員法などの成立にあたって、日弁連(日本弁護士連合会)は会長声明を発表し、「司法に健全な社会常識を反映させる意義を有するに止まらず、わが国の民主主義をより実質化するものとして、歴史的に大きな意義を有するものである」としながらも、「この制度が実施されるまでには、達成すべき多くの課題がある」として、「証拠開示制度や被疑者段階からの国選弁護制度などが適切に運用されること」や「取調べ過程の可視化(録画・録音)、身体拘束制度の抜本的改革をはじめとする制度改革が、施行までに実現されること」「十分な〔国民への〕情報提供、誰もが参加しやすい環境整備、守秘義務の範囲の明確化」を挙げた。
東京新聞5月5日付朝刊の「特報」は、「日の丸・君が代強制」問題、具体的には、東京都教育委員会による、卒業式で君が代斉唱の時に起立しなかった教職員の大量処分の問題を取り上げていた。
記事はまた、4月半ば、入学式で起立しなかった都立高の数学担当の男性教員が、都庁舎で都教委から聴取を受ける前の、都教育庁職員との押し問答について記述している。
『「聴取が公正であるよう、弁護士の立ち会いを求める」と教員。
「教育委員会の裁量で、立ち会いは認めていない」とはねつける職員。その場にいた学校長は、うつむいたままだ。教員に同行した弁護士が「懲戒処分を受ける可能性があるのだから、処分や手続きの公正さを確認する必要がある」と割って入る。押し問答は一時間続き、聴取に入ることなく終わった』
教員には『教育や人権問題とは無縁』だった二人の弁護士が同行していたという。
一人は『投資信託をはじめ金融商品の法務の専門家』で、きっかけは『自分も都立高校を卒業した。そこで今、普通に考えておかしいことが起こっているから』だという。
もう一人は『日本企業と海外企業の間の契約書づくりを中心とする渉外企業法務に携わり、普段は都心のビジネス街で多忙な時間を過ごす』。
彼は学校現場での「国旗・国歌の強制」のニュースを人づてに聞いて驚き、次のようにいう。
『内心の自由は歴史的にもっとも尊重されるべきであると考えられてきた人権のはず。それが、特定の人に対する狙い撃ちではなく一般的に侵されつつあるのではないか』
『今回の問題の本質は組合つぶしのように特定の思想を持った人々を権力が弾圧するという構図ではない。日の丸・君が代という多様な意見、感情を持つ問題について、権力でもってごく普通の人に特定の態度、行動をとることを強制している点にある』
なるほど、「特定の人に対する狙い撃ち」や「特定の思想を持った人々を権力が弾圧するという構図」はいいわけか。
こういう主張を平気でする弁護士をはじめとする一連の群れが、今の日本の暗澹たる状況を作りあげてきたのではないかと私は思う。
誰かを「普通の人」と規定することと、(前者の弁護士のように)物事を「普通に考え」ることとは、まるで違うことだ。私にとって「普通に考える」とは、論理的に妥当な議論をすることを意味する。公権力が一方で『〔「国旗国歌法」の〕法制化により思想、良心の自由との関係で問題が生じることにはならない』(小渕恵三首相=当時、1999年7月28日参院本会議) といいながら、もう一方で君が代斉唱の時に起立しなかった教職員を処分することが、論理的におかしいということだ。ここに「道徳」の問題があるとすれば、「愛国心」などというレベルのものではなく、例えば「1は1ではない」という主張を認めるか否かのレベルの問題なのだ。
「普通の人」という規定は自動的に、そうでない人をも規定する。それは、しばしば恣意的になされる。ある勢力にとって、左翼、外国人、「新宗教」の信者、ハンセン病を患った経験のある者などは「普通の人」ではない。
後者の弁護士が、ニーメラーの次の言葉を引用したのは皮肉である。
『ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分は少し不安だったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だから何も行動しなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。
ナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、それでもなお行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師だった。だからたって行動に出たが、そのときはすでに遅かった』
牧師は「特定の思想を持った人」ではないのか。牧師はドイツではありふれた存在かもしれないが、世界全体ではそうではない。何が「特定」かは、集団や領域の違いや大小によっていくらでも変わる。言い換えれば、誰でも「特定」の存在になりうるのだ。だから国際人権法は「すべての者」に良心の自由を認めているのだ。「すべての者」には当然、「ごく普通の人」も「特定の人」も含まれる。
ニーメラーの教訓は、全体主義者が「特定の人」を攻撃してきたら、傍観者になってはいけないということだ。傍観者を続けたら、いつかは自分が攻撃の対象になる。その教訓を口走った弁護士が、教訓を全然理解していない。おまけにこれを報道した記者も分かっていないかもしれない・・・日本はすでに手遅れか。
ニーメラーは、ナチスが自分以外の「特定の人」を攻撃したのをみて、ナチスに対して不安を覚えたぶん、まだましだった。ニーメラーの「日本版」は、残念ながら以下のようになりそうだ。
〈XXXが共産主義者を攻撃したとき、自分は共産主義に少し不安だったので、何も行動しなかった。次にXXXは「オウム」を攻撃した。自分は「オウム」にさらに不安を感じたから、何も行動したくなかった。
XXXは教師、ジャーナリスト、弁護士、ボランティア活動家、外国人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安が増したので、ますます行動に出ることはなかった。それからXXXは自分を攻撃した。自分は自分だった。だからたって行動に出たが、そのときはすでに遅かった〉
最近、オウム麻原氏の三女が大学に合格しながら入学を取り消された問題で、三女側が3月末に東京地裁に学生としての地位保全を求める仮処分を申請、東京地裁は4月28日に仮処分を決定し、結局5月6日に大学が入学を受け入れたと報道された。(朝日新聞、5月6日)
「XXX」には学校、新聞(またはテレビや雑誌)、さらに「ごく普通」と自己規定しそうな人々さえ当てはまることがある。
イラク人質事件で、政府が被害者を過剰に貶めている日本とは逆に、イタリアでは、政府が被害者を過剰に英雄視している。
26日のインターネット新聞「日刊ベリタ」によると、4月に拉致され、殺害されたイタリア人について、同国外務省は、公式ホームページで「彼は英雄として死んだ」と称賛し、人気のプロサッカーの試合でも、殺害された人質の名前を書いた横断幕がファンによって掲げられ、選手の士気を鼓舞するのに一役買ったという。こうした動きに、反政府系新聞は、安直な英雄論によって、ベルルスコーニ政権はその失政の批判の矛先を変えようとしていると反発しているのだという。
・日刊ベリタの該当記事(有料)
【論評】 日本政府は「自己責任」論で政府の責任を回避しているようだが、イタリア政府は全く逆のやり方で同様のゴールを達成しようとしているようだ。
米経済学者でニューヨーク・タイムズ紙にコラムを寄稿しているポール・クルーグマン(Paul Krugman)教授は、「嘘つき大統領のデタラメ経済」(三上義一訳、早川書房。原題"THE GREAT UNRAVELING...Losing Our Way in the New Century")で、『社会的ルールに関心のない革命勢力』を『正しく報道するためのルール』のひとつとして『公表されている政策目標がどうあれ、それだけで政策の意図が理解できると思ってはいけない』と忠告している。「革命勢力」は『自分が何をほしいのかよく承知していて、その目標を達成するためにはいかなる議論も使ってくる・・・だからその議論そのものに意味があるとは考えない方がいいだろう』という。
クルーグマン教授のいう「革命勢力」とは具体的には米ブッシュ政権を指しているのだが、これには日本の小泉政権やイタリアのベルルスコーニ政権も当てはまるのではないか。
26日の毎日新聞によると、自民党の柏村武昭参院議員が、26日の参院決算委員会で、イラクの日本人人質事件について「反日的分子のために数十億円もの血税を用いることに強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」と述べた。
また柏村氏は「それぞれの意思で危険な国に出かけて行って武装勢力に捕まった。これ自体が明らかに反国家的」と指摘。事件によって「国会開会中に官邸の機能が妨害、寸断されたわけで、言ってみれば公務執行妨害的なところもある」などと述べた。
(MSN毎日の該当記事)
【論評】 この件で閣僚や政治家の不見識発言を取り上げるのは、もううんざりだと私も思うのだが、見過ごせないのは、この人物の経歴だ。
本人の公式ページなどによると、柏村氏は中国放送のアナウンサーからフリーのタレントとして独立、「お笑いマンガ道場」(中京テレビ)の司会などを経て、01年7月の参院選(広島選挙区)で初当選した。
「ジャーナリズム」に携わっていた(はずの)者が、ジャーナリストに向かって、取材活動中に事件に巻き込まれたことを指して「反日的」と言ったのだ。真実の追究よりも自らのドグマに閉じこもる人間を代表する発言といえる。
日本のマスコミ業界が、たまたまこういう人間を政界に送り込んだのか、それとも、かなりのマスコミ関係者が彼と気分を共有しているのか。
本人のHPには、自らの「信条」の一つとして「NPO活動の育成 -善意の心を生かそう-」とある。これを読んで「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉を思い出した。地獄への道を舗装してくれたのはもちろん、助かった五人ではなく、柏村議員(と、彼に賛意を示した追随者)のほうだ。この場合の「地獄」とは、60年前の日本と同じ狂信的国家主義のことだ。
今後、柏村議員の「信条」には「政府の方針に従わない者は“反日的分子”とみなす」という但し書きが付いているものと見なすべきだろう。
おっと、重要なニュースを忘れてはいけない。
22日の読売新聞(読売オンライン)によると、自民、公明、民主の3党は21日、裁判員法案に関し、裁判員の守秘義務違反に科す懲役の上限を1年から6か月に引き下げるなど、罰則を軽減する修正案を共同提出することで合意した。
読売新聞は、「23日の衆院法務委員会と本会議で採決、可決される見通しだ」としている。(該当記事)
【論評】 私は、仙台北陵クリニック事件(マスコミは「筋弛緩剤事件」と呼称)の一審判決以来、裁判員制度に反対している(詳しくはこちら)。
一方で、次のようにも考えている。普段お茶の間で犯人視報道を見たり読んだりして「こいつは死刑だよねー」と口走っているような一般市民が、裁判員に選ばれ、自分自身が被告人に死刑を宣告するという事態に直面して、何か考えはしないだろうか。
21日の毎日新聞(インターネット版)によれば、福田康夫官房長官は同日午前、イラク日本人人質事件に関する参院本会議で、被害者について「本人たちの配慮が足りなかったことは否定できない。自己責任とは自分の行動が社会や周囲の人にどのような影響があるかをおもんぱかることで、NGOや戦争報道の役割、意義という議論以前の常識にあたることだ」「多くの人に迷惑をかけるのに、十分な注意も払わずに自分の主義や信念を通そうとする人に、それを勧めたり称賛すべきだろうか」と答弁した。(毎日新聞-Yahoo!)(MSN毎日)
【論評】 福田長官がわざわざ「自己責任」の定義に言及したのは、政府・閣僚による「自己責任」論に対し、内外から批判が強まってきたのに対処するためのように思える。
だが、福田長官による「自己責任」の定義が、私の頭ではどうにも理解できない。
まず第一に、責任というものは「おもんぱかる」ものではなく「負う」または「引き受ける」ものである。
第二に、福田長官のいう「責任」はあくまでも人(社会や周囲の人)に対してである。これに対して、一般的な意味での責任の対象は人に限らない。むしろ、任務・金銭・法律・義務など、人が直接の対象になっていない場合のほうが多い。そして普通、自己責任の対象は、自分の行為から生じた結果である。(自己責任の悪意的なバージョンが「自業自得」。)
それでは福田長官はなぜ、「常識」と自称する奇特な辞書でこのような定義を持ち出してきたのか。
重要なキーワードは「迷惑」だ。「迷惑」とは、誰かの行動で「社会や周囲の人」に悪い「影響がある」ことを指す。これは日本語の通常の定義として間違っていないだろう。そして「誰か」とは今回の場合「本人」「自分」であり、福田長官は「本人」「自分」という語を被害者に当てはめている。
そうすると、福田長官の辞書に載っている「責任」とは、日本語では「迷惑」を指すことが分かる。福田長官が日本人であれば、被害者に「自己責任」などという言葉を使うべきではない。
日本人の悪いところの一つは、福田長官のように「迷惑」が道徳の根本をなしていることだ。裏を返せば、迷惑をかけさえしなければ許される行為が存在するということになる。被害者に嫌がらせの電話したり中傷の手紙を送る行為は、相手以外の誰にも迷惑をかけない。被害者のプライバシーを侵害する行為も、迷惑を受ける人がそうでない人に比べて圧倒的に少ないことを利用しているといえる。
「迷惑」論で本来の「責任」の意味をすり替えようとする福田長官の発言を、まさしく「自制の欠如」(仏ルモンド紙)というのである。
ついでに、川口外相が20日の衆院本会議で「今後もイラクへの渡航は絶対控えるよう強く勧告したい。海外に渡航する邦人は自らの安全は自ら責任を持つという自覚を持ってほしい」とまたしても「自己責任」論を繰り返したことを挙げておく(共同通信-Yahoo!)。福田・川口両発言とも、まったくもって世界の恥さらしである。
【辺境通信の関連記事】
・日本人人質に対する「自己責任」論のおかしさ
・「自己責任」論者に川口外相を追加
川口外相の「自己責任」論を載せるのなら、彼女の「ボス」の「自覚」論も載せる必要があるだろう。
16日付の共同通信によれば、小泉純一郎首相は16日昼、首相官邸で記者団の質問に答え、イラク人質事件で保護された被害者側からイラクでの活動継続希望が示されたことに対し「いかに善意の気持ちであっても、これだけの目に遭っても、これだけ多くの政府の人たちが寝食忘れて努力して、なおかつそういうことを言うのか。自覚をもってもらいたい」と強い不快感を示したという。(該当記事)
【論評】 小泉首相に問いたい。「寝食忘れて努力」したから何なのだ? あなたは今回の救出で具体的に何をしたのか? 自衛隊イラク派兵について、日本国憲法や国連憲章・安保理決議へのいかなる「自覚」があったのか?
