日本でインターネットが大きく普及してから十年。最近は、ブログの普及でHTMLの知識がなくとも、個人でニュースサイトを運営できるようになった。マスコミからの情報を一方的に受けとるだけの時代は終わったのである。
このような時代には、メディアの内容を無批判に真実と信じて納得するのではなく、メディアの情報はマスコミ報道も含めてすべて、発信者の特定の意図に基づき、特定の手法によって取得(取材)、編集、発行(送出)されるものであるということを理解することが求められる。このような理解に基づきメディアを使いこなす能力をメディアリテラシーという。ブログなどで情報の発信者となるのであればなおさら、メディアリテラシーが要求される。
ところが安田好弘弁護士を擁護してきたこれまでの一連の投稿で、日本がメディアリテラシー不毛の地であることを改めて思い知らされた。(もともとは安田さんが和歌山毒カレー事件の弁護を引き受けるというので、本来はこちらのほうを記事にするつもりだったが、全く違う結果となってしまった。)
報道・メディア(一般): 2006年3月アーカイブ
前回記事に対して、「Birth of Blues」というブログの作者は、あれこれと言い訳や言いがかりを書いたあげく、ついに該当引用部分の正確な引用元を示さなかった。
検索をかければ「週刊新潮」と出てくるし、他にも掲載された媒体もあるのだろうから、ここ(雑誌名・サイトのURLなど)から引用しました、ごめんなさい、とだけ素直に応じればよろしい。新聞記事や判例のコピペよりもはるかに楽な作業を要求している。頑なに拒否しているのには、何か特別な理由があるのだろうか。私が前に書いたとおり、「公知だから」というのは理由にならない。
もう一つ、「りゅうちゃんミストラル」というブログからも反応があったが、「Birth of Blues」の反論が「実にすばらしい意見」なのだそうだ。本気でそう書いているらしいから呆れる。したがって、その「実にすばらしい意見」の思考パターンは、かなりの部分、「りゅうちゃんミストラル」の作者にも当てはまるのだろう。
引用にあたっては、情報の出所を明示する。このような当たり前のことが、インターネットの掲示板、ブログばかりでなく、報道機関さえできていないことがあると度々思うのだが、前回記事の内容に関連するブログを読んで、改めてこの問題を考えざるを得ない。
本ブログに否定的なトラックバックをくれたこのブログ(第1のブログ)は、『加害者は手紙で被害者についてこう書いているという』といって、その内容を別のブログ(第2のブログ)から引用しているのだが、その情報の出所に関する記述がない。
第1のブログの記事によれば、筆者は「この裁判も地裁からずっと傍聴してきた」というのだが、安田弁護士批判につなげているこの事実の引用の仕方の不適切さから考えると、傍聴報告もあまり信用できない。
さらに第2のブログのその該当部分も、これまた引用のようなのだが、引用元も含め、情報の出所に関する記述がまるでない。
仕様がないのでGoogleで検索をかけると、情報源は「週刊新潮」(ああ、またこれか)と出てくる。
ライターの藤井誠二氏は自分のブログで「控訴審で証拠として提出された」と書いているが、
http://ameblo.jp/fujii-seiji/entry-10010264260.html
藤井氏はそれが結果として採用されたのかどうか明らかにしていないし、手紙に話し言葉は不自然ではないかというような反証もしていない。もっとも、これを無批判かつ不適切に引用している人々はとにかく自分の処罰欲に適合する情報を拡散できさえすればよいのであって、情報源が検察か「週刊新潮」かさえ重要ではないのかもしれない。
以上の考察は「人権」以前の、ものを考える(考えてもらう)のに必要な言葉の使い方や、事実認識の仕方の問題である。情報源の明示や反証といった、仕事にも必要な筋の通った思考や議論に欠かせない方法が、刑事事件に関する公の議論では成立しないのはなぜだろうか。
ここ半年ほど、生活環境に大きな変化があって本業の忙しさが増えたために更新を事実上中断しているが、ブログ・サイトアドレスが変わった件とは直接の関係はない。
それにしても、10年近くマスコミ批判サイトを維持してきて、報道の質がよくなるどころか、ますますひどくなってきているように思う。
ブログの普及によって、私以外にも報道の問題を・ウェブ等で表現する人達が周辺に増えてきた。プロのジャーナリストが市民とともに独立の報道機関を立ち上げる流れもでてきた。そこで正直なところ、あまりなくなってきた時間・コストをあえて使って自分自身のサイト・ブログを維持する必要があるのかという疑問が起こってきている。
一方で、テレビ・新聞など従来型マスコミが批判を承知で居直っている雰囲気がある。そういうマスコミがいまだ特権を失わないのも、記者クラブなどを利用した公権力への擦り寄りと、報道やジャーナリズムなど重要でなく、まして「誰にとっての表現の自由か」など考えもしないような読者・視聴者・広告業者があってのことだろう。
エントリー(記事)のタイトルには「民主党・永田議員のメール問題は重要な国政課題か」と書いた。言い換えれば、「マスコミの皆さん、あなた方が今国会でどうしても追及したかった事実は、国会議員が電子メールの送信元をよく確認しなかったことですか」ということだ。
もちろん、その答えが「イエス」であり、まさしくそれが政治報道の目的にかなったものであると主張しても、私は聞く耳をもつつもりだ。日本の重要課題がメディア・リテラシーであり、それが政治家の行動となって現れたのが今回の問題であると一貫して主張するなら、拍手を送ろうではないか。
だが、今回は違うだろうといいたい。いま問題になっているのは小泉政権が「競争」と「金融化」を煽る一方で社会的公正を軽視しているのではないかということだ。証券取引法違反で逮捕された堀江貴文・ライブドア前社長は「競争」と「金融化」によって勢力を伸ばし、堀江氏自らもそういう風潮を煽ってきたが、小泉政権や自民党もまたライブドアや堀江氏をバックアップしてきたではないか。
昨秋、武部氏は堀江氏と会談して、堀江氏から党の広報活動に関する提言を受けていたし(アサヒ・コム、2月10日)、ライブドアの社内報に登場したことも認めている。
「これは通常の新聞や雑誌などの対談に変わるものではない」という武部氏の認識もまた、メディア・リテラシーを欠いたものといわざるを得ない。ライブドアが「ライブドア・ニュース」を擁する報道機関であることを念頭におけば、社内報だからこそ、同社の政治へのかかわり方がスタッフに示されたものとして問題である。
ともかく、厳しい立場に追い込まれていた自民党と武部氏は、枝葉末節が大好きなマスコミに救われた。
