いま裁判員制度と報道を考える集会の案内を書くついでに、それに関するいくつかの新聞社説を発見し、つくづく、マスコミによる犯罪報道正当化は破綻しているなあと思いました。
以下は、Yahoo! Japanに紹介されていた地方紙の社説です。
・報道と裁判員/読者の信頼より高めたい(神戸新聞、1月23日)
・裁判員制で報道指針 知る権利と調和求める(中国新聞、1月18日)
これらの新聞が共通して行っている犯罪報道の正当化理由は、
(1)社会不安の解消
(2)再発防止策の追求
(3)捜査や裁判のチェック
ですが、
(1)社会不安の解消
犯罪被害の経験のある私が以下のことを言うのも何ですが、現実を直視しましょう。
ここでいう犯罪とは、個人が個人に対して行う犯罪に限らせていただくとして(つまり権力犯罪はのぞく)、この世の中のすべての社会的事象に占める犯罪の率は、マスコミの全報道に占める犯罪報道の割合より遙かに少ないと断言できます。全人口に占める犯罪者の率も、一日に報道される人数に占める被疑者・被告人の数の割合より遙かに少ないでしょう。
社会不安を解消したい「だけ」なら、マスコミができる最も簡単な方法は、全報道に占める犯罪報道の割合を現実に合わせることです。もっとも、私はそういうことは望んでいませんが、ネガティブな情報を社会で共有することと社会不安を広めることは等価であって、犯罪報道が社会不安を解消に導くという主張は自己矛盾しています。
(2)再発防止策の追求
私が前のエントリーで主張しているように、マスコミ報道は防犯の観点からの犯罪の分析がなされていないか、視点が防犯から根本的にはずれています。特異な事件や珍しい手口、異常な心理にばかりいくら着目したところで、「オーソドックスな」犯罪の抑止になるはずがありません。警察さえ、マスコミにミスリードされているようなところがあります。まずは、統計に基づく犯罪の分析をきちんとやってください。
(3)捜査や裁判のチェック
そんなことをやるつもりもなく、今日も公判前の捜査情報垂れ流しを繰り返しているにもかかわらず、よくもこんなことがいえるものです。捜査や裁判のチェックが過去から行われていたというなら、例えば北九州市・引野口事件の冤罪被害者は、早期に冤罪という社会的合意が得られていたはずです。ロス疑惑で三浦和義さんが米当局に拘束されることもなかったはずです。でたらめ言って読者・視聴者をだますのはいい加減やめてください。
また、マスコミは一部の犯罪被害者を利用して、被疑者・被告人と対立する構図を作り上げていますが、ほかならぬマスコミが被害者などに取材被害を与えていることが発覚し、被害者を利用することも、犯罪報道の一般的な正当化手段としては、もはや通用しなくなってきています。
以上のように、マスコミによる犯罪報道の正当化はことごとく破綻しています。
それほど犯罪報道に公益性があるというなら、犯罪報道専門紙とか犯罪報道専門チャンネルというのがどうして存在しないのでしょうか。報道機関を「正義」と規定して犯罪報道をいくら正当化したところで、一方で本質的に興味本位で、人の不幸をビジネスに利用しているという後ろめたさから逃れられていないのでしょうか。
ならば犯罪報道を根本的に変えてほしいと思います。例えば、いま刑事裁判になっている事件の裁判の進捗に関するものを、情感を差し挟まずに淡々と情報提供・解説するのです。すべての犯罪を取り上げることは無理でも、殺人や強盗などの、いわゆる「凶悪な」事件をすべて取り上げることは可能でしょう。
一方で、公判前の報道については差し控える。ただし、当局が被疑者に対し長期拘束や自白強要などの人権侵害を与えるなどの不正が発生している場合をのぞく(これこそが捜査チェック)。
そのほうが、裁判員制度にも適合しています。一部の「衝撃的」事件にばかり情報が偏ることがなくなるため、被害者側にとっても公正なものになるはずです。

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